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アドリエンヌ・フォン・シュパイアの著作紹介
ハンス・ウルス・ フォン・バルタザール
原語タイトル
Das literarische Werk Adrienne’s von Speyr
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書籍説明
言語:
日本語
原語:
ドイツ語出版社:
Saint John Publications翻訳者:
理矢子 彦田年:
2023種類:
論文
アドリエンヌ・フォン・シュパイアの著作は、(自ら著したいくつかを除いて) (1944年から)口述筆記で書かれたものか、あるいは部分的に、彼女が指導していた若い女性たちのグループで使う、黙想用のテクストとして書かれたものです。彼女の全著作は15,000ページにも及び、そのほとんどは(そもそもこれらの著作のために創設された)ヨハネス出版会( Johannes Verlag Einsiedeln)から出版されています。例えば、ヨハネによる福音書に関する注釈書全4巻、黙示録に関する注釈書が全2巻、山上の説教、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙に関して各1書、聖母マリア、祈りの神学に関する著作、それから、ローマの信徒への手紙8章、旧約聖書の人物たち、父なる神、神の無限性、死の神秘、永遠の命の入り口について(恵みと啓示によって永遠の命に向かって時間が開かれることを描いた)、短めの諸著作があり、それからまた、特に福音的勧告に生きる人たちのための禁欲についての書、コリントの信徒への手紙一、コロサイの信徒への手紙、マタイによる福音書における受難、全司牧書簡、イザヤ書の大部分、18の詩編への各注釈書、キリスト者の身分に関する著作などがあります。
これらの著作は、部分的に、より難解な著作への道を準備してくれます。それらの著作においては、出版された他の諸著作ではほのめかす程度であった、以下のような基本テーマが展開されています。とりわけ聖土曜日、「キリストの陰府降下」の神学、受難一般に関する信仰の神秘、それから、十字架と陰府降下に密接に結びついていると解釈される、ゆるしの秘跡の神学、煉獄の神学、教会・教会的聖性・教会の類型論の神学、キリスト者の生活のキリスト論的前提と基礎、とりわけ教会における、福音的勧告における従順、性別に関する詳細な神学、聖書における霊感の形式に関する類型論、最後に、三位一体の教義に関する論文と、広範囲な神秘主義の神学です。
多彩なアドリエンヌの著作全体の特徴をある程度明らかにするため、以下の三つの点を確認しておきましょう。
1.アドリエンヌの著作全体を徹底的に支配しているのは客観性への傾向であり、個人的な感情を交えず、論じる内容自体に集中しているため、のびのびとしてユーモラスな彼女の個性は、間接的にしか輝いてみえてきません。
人間は神の威光と愛に仕える者であり、キリスト者は神の言、つまりイエス・キリストに仕える者です。奉仕と愛は一体です。それは、すなわち、最愛の存在、つまり神によって与えられた任務に自己を埋没させることです。このような態度は、神の子の態度に由来するものであり、それはまた、三位一体内の神秘を振り返って指し示します。(深層)心理学の観点からキリスト者の生活に取り組み、それを理解し活性化させようという傾向が、神学者や霊的指導者の間で高まり続けているのとは対照的に、アドリエンヌ・フォン・シュパイアの神学は徹底的に、過激なまでに反心理学的です。人間の救いと魂の健康は、人間の真理と同じく、任務への献身にあるとされます。
使命というのは、私個人に与えられる神の御心であり、天において三一的に形成され、受肉した神の御言葉によって原型として体現され、個人的に唯一無二の仕方で私個人のために意図され、与えられるものです。それは事象として起こるもので、その最も純粋な形は、聖イグナチオの霊操の「選定」において現れ出るものです。「選定」において、霊操者は、祈り、奉仕の覚悟をもって、決して自分勝手に自分自身の最良の可能性を選ぶのではなく、キリストに従うという、自分に提示された可能性を選ぶものです。こうして、原則として何の限界も設けないマリア的な受諾の言葉で使命を受け入れることによって、制限のある個別性がカトリック的な普遍性へと開かれ、こうして、恵みによって聖性へと導かれる機会も生じるのです。愛する者の霊は、自然において想定されるものをはるかに超えて、神によって形を整えられます。アドリエンヌ・フォン・シュパイアの神学の特徴は、信仰経験を、信仰認識に一貫して仕えさせていることです。これは、多くの宗教的著述家が、信仰の学問を霊性へ、客観的神学を情動的神学へと変換してしまう(そして、もはやまともな神学者たちに全く相手にされなくなる)のとは対照的です。「神の経験的認識(Cognitio experimentalis Dei)」というのは、具体的には「キリストにある、教会にある、神の経験的認識」、すなわち「経験的」キリスト論と教会論でもあり、それらは私たちに贈られるすべての恵みの受肉的形態に相応するのです。
以上のことから、アドリエンヌは聖書の御言葉を極めて客観的な、「教会的」耳をもって聞くことができるのです。魂がその深淵で耳を傾けるように、彼女は、聖書の一節一節に、全神経を傾けて聴き入ります。一つの言葉を理解するために他の言葉を引き合いに出すことは決してなく、常に、瞬きもせず気を散らせることもなく、たった今鳴り響いている一つの言葉だけを捉えるのです――そうして伝えられるべき深みが、開かれ、注ぎ出されるまで。
聖書の一文一文が、キリストの真理あるいはキリストについて伝えているがゆえに、また聖霊の霊感を受けているがゆえに、教会論、キリスト論、三位一体論に関わります。そのことを理解しているアドリエンヌの聖書解釈は、決して水平方向にずれていくことはなく、聖書の御言葉自体の奥へと沈み込んでいくのです。彼女の解釈は決して、聖書テクストに関する「正確な学問的」知識に取って代わるようなものではありません(そのような知識は、神学や釈義学の文献を何も読んだことがない医師において前提とされたり求められたりすべきではありません)。むしろ、彼女の解釈は、常に旧約と新約の両側面――すなわち、約束の意味と成就の意味――とを含む、今日「十全的意味(le sens plénier)」と呼ばれる方向に向かうものです。彼女のテクストの多くは、観想の手引きとして、従って、聖句に関する新しい観想のための、ほぼ専門的な準備として、つまり「観想のポイント」として、役に立つものです。
2.第1の特徴は、第2の特徴につながります。キリスト教とは、本質的に、教会におけるキリスト者の生活であり、従って、花婿と花嫁の間の神秘です。しかし、その神秘は、十字架と陰府降下において、神の子があのように神に見捨てられたということにおいて、成就します。そのことにおいて、神の子は自分の花嫁のために、最後まで彼女に対して自分の命を捧げ、こうして新しい永遠の契約が執行されるのです。
キリストの苦難には教会的な側面があり、キリストに従う者はその苦難に与ります。秘跡はすべて、ここから生まれますが、それは効力を持つようになるというだけでなく、存在するようになる、という意味においてです。パウロが洗礼について述べていること(ローマ 6:3以下)、キリストがエウカリスティア制定の際に言われた言葉がはっきり表していること――それはまた何よりゆるしの秘跡にも当てはまるということを、アドリエンヌ・フォン・シュパイアは示しています。つまり、告解者は、十字架に架けられた御子が御父の前で人類全体の罪を告白したことに与り、またその告白を受けて御父が与えた全面的赦免に与るのですが、こうして与ることには、キリストの陰府降下に神秘的に与ることも含まれるのです。死の世界から新しい命は生まれ、失われるから見出し、見出され、絶望から希望が生まれます。そして、キリストにあっては、愛のための愛は自己疎外となってしまいます。遠さが近さの様態となり、見捨てられることが親密さの様態となります。
教会的実存、キリスト的実存は、この輪の中にあります。つまり、私たちが生きることを許される神との近さはすべて、十字架上で御子が神から遠ざけられたことによって買い取られたのであり、このことを根拠として振り返って指し示しています。しかしまた、神からこうして遠ざけられたこと、それ自体が究極の神の愛の表現に過ぎません。神の愛は、罪の夜を自ら担いながら、それを愛の夜へと変容させることができるのです。ここでもまた、心理学の地平が決定的に超えられて、神学へと至っています。このことは聖母マリアにおいて明らかに例示されていますが(アドリエンヌ・フォン・シュパイア『主のはしため』を参照)、すべての聖人においても例示されています(彼らの教会的使命については、アドリエンヌのまた別の著書で扱われています)。言うまでもなく、これらの考えは、私たちの時代と人類が抱く問いに真摯に向き合うものです。問いに対する答えは豊富に提示されているので、あとは受け取られ、ふるいにかけられ、評価されるのを待つばかりなのです。
3.キリスト論は完全に三位一体の上に成り立つものであり、常に三位一体の観点から説明されなければならず、三位一体に立ち返らなければなりません。人としてのイエスと御父との距離は(それは、私たち人間、つまり、私たち罪びととしての存在と神との距離を内に含みますが)、同時に、聖霊によって一つである御子と御父との永遠の距離を、世に対して明らかに示します。神は愛です。
アドリエンヌ・フォン・シュパイアの聖書解釈は聖ヨハネから始まります。彼女が口述筆記を始めたのはヨハネによる福音書からであり、パウロやその他すべての聖人たちについて書いている時でも、何度も何度もヨハネに立ち返るのです。人間として、キリスト者としての、関係、状態、愛の経験――アドリエンヌにとって、この世にあるすべてのことは、神の内なる命を少しでもよりよく理解するための、機会であり出発点です。そして、彼女はすべてにおいて三位一体的なものを感じ取るがゆえに、彼女の思考のあらゆる段階に、常により大いなる神の真理が染み渡っています。信仰とは、神の真理と命が、私たちの理解や生活によって把握できるものよりも、常により大いなるものであることを認めることです。だからこそ、アドリエンヌは、「破裂(Sprengung)」「超成就(Übererfüllung)」「充溢(Überborden)」「超過(Übersteigen)」などの言葉をよく使い、既に知っていることを新しい洞察を得るために放棄することで、見識に至るのです。このような躍動的ダイナミズムは、「言葉にならないもの」の前での非キリスト教的な「沈黙」を、真にキリスト的で聖書的な形へと導き戻すものです。それはつまり、神の、常により大いなる愛の前に謙虚にひれ伏すことであり、神の御言葉を超えたり帳消にしたりすることではなく、むしろ、信仰において、キリストの人としての姿から、タボル山で変容された際に見られた神としての姿へと、導かれ昇るということです。アドリエンヌはまた三位一体から、とりわけ、婚姻と処女性という二つの教会的身分を解き明かします。これら二つの身分は、それぞれ区別されながらも補完し合い、福音的勧告の美点が損なわれることもありません。
ここまで述べてきたことから、アドリエンヌ・フォン・シュパイアの著作は、純粋にそれ自体として、また完成されたものとして捉えた場合、教会史において唯一無二のものと見なすことができるでしょう。彼女の神学的、救済史的視点の広さは、どこかビンゲンのヒルデガルト(彼女もやはり医師)の霊的風景を彷彿とさせ、また彼女の聖書解釈の仕方は、ある意味で教父たちの観想的方法を思わせます(ただし彼らのアレゴリー的解釈に時折見られる恣意性はありませんが)。だからと言って、彼女が彼らの著作に依拠しているというわけではありません。
現代の砂の中に突然芽吹いた、アドリエンヌ・フォン・シュパイアというこの木の存在には、何か計り知れないものがあり、色々な意味で喜ばしいものです。この木は、理解するための努力を少しも惜しまない人には、ほとんど無数の実を与えてくれるでしょう。アドリエンヌの著作は、とりわけ司祭に真の豊かさを提供し、司祭の観想、説教、キリスト者としての生活全体の滋養となるものです。アドリエンヌの著作は完全に教会に奉仕するものであり、神から贈られた彼女のすべての洞察は、世俗化した現代世界に生きる一般信徒が、その生活において実を結ぶための種となるべきものです。