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私たちの中の復活
Adrienne von Speyr
Título original
Auferstehung in uns
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Temas
Ficha técnica
Idioma:
Japonés
Idioma original:
AlemánEditorial:
Saint John PublicationsTraductor:
Riyako HikotaAño:
2023Tipo:
Artículo
マグダラのマリアは、敬虔な女たちと共に墓へ急ぎます。彼女たちはある意図に導かれていますが、それはその時代の信心深い者なら誰でも理解し、知っていたことです。彼女たちは、自分たちの文化と同胞の慣習に従って、故人の遺体の世話をしに行くところでした。もちろん彼女たちの振る舞いには、故人への優しい気遣いと愛情が感じられますが、故人の復活を希望しているような素振りは見られません。それどころか、彼女たちは改めて故人の遺体を清めるためにこそ、薬草や香料をもって来たのです。そして、彼女たちが、石が転がされていることに驚きながらも事に当たろうとしている時に、復活された主の世界が姿を現し始めます。まずは、復活の天使が、驚愕している女たちに新しいメッセージを告げます。それから、マグダラのマリアが庭師の姿の主を目にします。彼女は主が自分の前に立っているのを見ますが、彼女の目に映る姿は彼女の頭の中のイメージと一致しません。彼女の中の何かが復活を信じることに抵抗しているというわけではありません。むしろ、そのような信仰はまだ彼女に与えられていないのです――ご自分の復活を約束した主の言葉を、彼女は記憶のどこかに留めているはずではありますが。むしろ、主の言葉は彼女の記憶の中に隠されていて、主ご自身のみが、それをご自分の命の力でもって生き返らせることがおできになります。マグダラのマリアと女たち、そしてその後、使徒たちが遭遇することは、未来のキリスト者たちへのしるしです。復活された主自身の恵みによるのでなければ、誰も信じることはできないのです。そしてキリスト教の信仰というのは、復活の信仰と一体です。主の復活は、中立的に断言できるような事実ではありません。復活された主ご自身が、自らを知らしめるのです。主は、ご自分の恵みの自由において、その新しい命を明らかにされます。そしてこの恵みは、信じる者の魂のどこかに隠されて、近づけないように留められていた信仰の言葉を生かし、生きた答えを呼び起こすのです。主が墓で眠っておられる間は、信仰の言葉もまた、魂の中に埋葬され、布にくるまれ、封印された墓石の後ろでひっそりと眠っています。たとえ福音書において、イエスが「不信仰とかたくなな心」(マルコ16:14)をおとがめになっているとしても、弟子たちや女たちに信仰がないのではありません。むしろ、彼らの信仰はいわば凍りついていて、死の夜において狭くなり、硬直してしまったようなものなのです。そして、ようやく、復活された主との出会いが、彼らの信仰をも復活の命へとよみがえらせます。御子は御父の御言葉であり、死者の中から永遠の命によみがえるのですが、私たちの中の信仰もまた、恵みの中にある永遠の御言葉の現存なのです。
パウロは、私たちがキリストと一緒に死に、そして復活すると、繰り返し語っています。共に復活するのでなければ、私たちは主の復活を理解することはできないでしょう。そして、そのことによって、私たちは、女たちが天使と経験し、マグダラのマリアが主ご自身と経験させて頂いたことの一部を経験するのです。つまり、私たちもまた、初めて――そして何度も新たに!――、互いに一致するとは思われないことを、一致させなくてはならないのです。すなわち、私たちが知っていると勘違いしていること(「この男は庭師だ」、あるいは「主は亡くなったのだから、死んでいる」ということ)と、復活された主との出会いを通して私たちが本当に、主を見る者、主とあるいは主の天使と話す者となったということとを一致させなくてはならないのです。この統合をやってのけるのは主です。私たちは既にその存在において、主の復活の世界に含まれており、今や主は、いまだ遅れをとってまだ聖土曜日に留まっている私たちの意識においても、この存在の光を灯してくださるのです。復活することによって、主は私たちをキリスト者にしてくださったのですから、私たちはこのことを実現しなければなりません。
しかし、今日私たちが、キリストの復活した栄光の体の奇跡に出会うのは、単なる信仰においてではなく、エウカリスティアの奇跡においてです。この神秘において明らかになるのは、主が復活を望んだのはご自分自身のためではなく、復活においてご自分が得たものをご自分の民と分かつためであったということです。主は復活し、エウカリスティアにおいて自らを惜しみなく与えられます。復活の主は、単に美しい絵のように鑑賞されるために自らを与えるのではありません。主はご自身そのものを、私たちの中へ贈り物としてくださるのです。私たちは単に主を見て理解するだけでなく、主のようになることを求められているのです。私たちの罪をすべてご自分の体にふんだんに担われたように、主は私たちをご自分の同じ体にふんだんに与らせることを望まれます。私たちを教会とすることで、主は、私たちをご自分の生ける復活の体に組み込もうとしておられます。この体の中にこそ、そしてこの惜しみなく与えられる体の現実性の中にこそ、教会はあり、そこに私たちは属し、互いとの愛の交わりもそこで行われるのです。こうして初めて、ご計画は成功となります。そのためにこそ主は人となられたのです。つまり、神から疎外された世を御父の元に連れ戻すためです。主ご自身が死者の中からよみがえり、御父の永遠の命によって体をもって生き、そしてこの永遠の体の命をご自分の教会に贈り物としてくださるのです。
もちろん、これらの真理をただ無味乾燥な仕方で神学的に捉え、記憶することはできます。しかしまた、これらの真理を完全に個人的な経験として理解することもできますし、そして、本来はそのように意図されているものなのです。それはちょうど、後に主であることが判明した庭師との出会いが、マグダラのマリアにとって忘れられない個人的な出会いとなったのと同じです。このことが彼女の身に起こり、そしてこの途方もない体験から、彼女は生きた信仰を持つようになったのです。私たちが主と共に復活させられるというこの個人的経験――それにおいて、教会の信仰の中で、私たちの意識が私たちの存在と一致し、そして私たちの存在が私たちの意識と一致すること――は、聖体拝領において毎回常に私たちに提供され、確保されています。私たちが受けるご聖体には、決して衰えることなく、永遠に若く、有効な復活の神秘が含まれており、それは私たちの中で、パン生地を膨らませるパン種のように働こうとします。こうして、復活された主は私たちの内に、御父が私たちを創造された時に生ける御言葉という形で私たちの中に据えられたものを、膨らませようとされます。それは、時が経つにつれ私たちがますます深いところに埋めてしまったものです。私たちは、復活を通して、御父が望まれるような者となることができるのです。復活祭のメッセージは、復活の出来事に与るすべての人々にとって、良い知らせです。イエスと同時代の人々は、感覚的な仕方でそれに参加することができ、それは外面的にはその体験を容易にはしましたが、内面的には主の恵みによる啓蒙と高揚に依存していたことは私たちの場合と全く変わりません。イエスと同時代の人々は、自分たちが失ったと思っていたものを、感覚的な形で取り戻しました。しかし、信仰という生きた贈り物を受け入れる時に私たちが受け取るものもまた、それには劣らないのです。何度も何度も私たちは、自分の罪や優柔不断な態度、強情さのせいで、おそらく決定的に主を失ってしまったと考えるものです。それでも主は、私たちがもはや求めもしなくなった清さを、予期せぬ形で贈り返すことによって、ご自身を何度も何度も私たちに贈り返してくださるのです。告解における赦免によって得られた清さは、その後聖体拝領によって証印を押されます。聖体拝領は、最も清い体に与ることであるからです。それは常に新たに繰り返される、具体的な奇跡なのです。
初聖体をこれから受ける子どもは、それを何か極めて偉大なこととして、初めから私たちの人生のあらゆる限界、私たちの理解能力すら超える何かとして、待ち望みます。この期待は初聖体の祝いの日まで高まり、その子の生涯全体に印を残します。もし私たちも再び子どものようになって、天の国を迎え入れ、主が望まれるような仕方で信じることができれば、最高の崇敬と最も生き生きとした希望とをもって復活祭を待ち望むことができるでしょう――これから起こることは、私たちの中にある無限のものであり、私たちの習慣や凝り固まって陳腐化した概念の墓を永久に吹き飛ばしてしまうということを知りながら。つまるところ、私たちのために主は復活され、私たちのために主はこの出来事を生きたものとし続けてくださるので、私たちは主の生きた教会においてこの出来事に生かされるのです。これこそ、主が自ら完全に復活の神秘に基づいて設計し、存在させられた教会なのです。
典礼暦全体は、そのすべての祭日と祝日、主と聖母の祝日、聖人の祝日、教会の行事や献堂の祝日を通して、常に一つのことを祝っています。すなわち、主が復活されたのは、私たちと一緒に御父の元に行くためであり、ご自分の死と復活を通して、罪の重みと深刻さとを、私たちと一緒に克服するためだということです。
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